2004年06月14日

[  活字の海で溺れてしまえ  ]

戦後の小説

「戦後」が何をしたというのか

たしかに「戦後」には生まれつき、いじめられやすい体質があった。小松左京さんは『日本アパッチ族』『地には平和を』などのSF小説でこれを表現している。とんでもない過ちを経て、なにかの僥倖にも助けられ、やっと私たちが手にした平和な戦後。しかしそれは、いかにもはかなげで、もろく、弱々しく。だからこそ、ますますいとおしく。

 60年代の小松作品と話題の近刊『終戦のローレライ』の落差を興味深く読んだ。


どれも読んでいるのに気が付かなかった。たしかに落差はある!

それはどっちがいいとか悪いとかいう話ではない。「戦後」というものに対するまなざしの違いだ。
まさしく戦中から敗戦そして戦後という昭和史のど真ん中を生きてきた小松左京の作品には、敗戦という強烈な経験を消化し、自分の血肉としようというバイタリティがあふれていた。あんまりあふれすぎてて、『日本アパッチ族』では難波の日本人が食鉄人種に変化し、米軍の廃棄した兵器やスクラップを焼いて食っていたほどだ(小松左京は今読んでも面白いね)。
それにたいして『終戦のローレライ』は、敗戦から現代までの経緯を一歩離れた位置から俯瞰して、物語を作ったようにも思える。それはたぶん、戦争を知らない世代じゃないと思いつかない、あるいはたとえ思いついてもなかなか指摘しにくい視点なのだろう。

Googleで「終戦のローレライ」を検索している最中に見つけた文章である。
ははぁ、こういう見方も面白いなと思ってエントリを起こした次第。

「終戦のローレライ」上:下 参考にリンク

投稿者 snjx : 2004年06月14日 16:57
このエントリーのトラックバックURL:
http://snjx.net/mt/mt-tb.cgi/189
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?