菊野脩、ゴム丸こと亀丸拓哉、河童こと河邑浩童。小学校5年生の少年3人。
彼らと一緒にひとあし早い夏休みを過ごした気分だ。ああ、なぜ大人には夏休みがないんだろう。
多摩川流域の、ありそうでなさそうな支流のひとつ、桜川。そこを舞台に繰り広げられる少年たちのひと夏の冒険。小学五年生三人が、夏休みの自由研究の課題に選んだのは、自分たちが住む地域を流れる川だった。それも単純に川を眺めているだけじゃない。その川には彼らだけの秘密があった。なんとそこには、どこから迷い込んだペンギンの夫婦が住み着いていたのだ。
そう、この物語は、本格「川」小説であると同時に本格「ペンギン」小説でもあるのだ。
構成がうまいなと思うのは、物語が進むにするにしたがって、だんだんと主人公たちのその認識も広がって行くところ。その構図はまるで大きな川の流れをたどっているようにも見える。
ペンギンを観察する過程は、そのままペンギンの生活の場である桜川を理解して行く過程だ。そして、川を知ることはその流域の土地の歴史を知ることに直結する。その土地の歴史を知ることは、そこに棲む人々を理解することであり、同時に転校してきた脩にとっては、この土地でできた友達のゴム丸や河童を初めて深く理解することでもある。場所を理解し友を理解することで、脩もやがて、単なる転校生ではなく、桜川流域人として迎え入れられるのだ。
川は湧き水から始まり、山を下り、他の川と交わり、大河ととなってやがて海に至る。そして海は世界につながっている。
人は川をたどって流域に住み着き、土地を開いて村を作り、他の土地の人々と交わり、やがて大きな町を至る。それは人が川を滑走路として世界へと飛び立つ道程でもある。
子供たちがちょっとマセすぎじゃないかと感じないでもないが、子供が大人を見る際に感じるあのもどかしい感じはよく出ていると思う。そうそう、思い出すよ。子供のみが持ち得るあの「自分にはなんでもできるんだ」という全能感と、それとは裏腹に成長して行くにつれて少しづつ理解していく自分を取り巻く世界の広さとそれに対する無力感。そして全能感と無力感の狭間に湧き上る焦燥感。その焦燥感は大人たちだけじゃなくて、級友にも自分にも等しく向けられる。
お話とは全然関係ないけど、手嶋と脩のエピソードを読んで、ちょっと思い出したことがある。
中学のときのこと、ある日、国語の授業で短編小説を一本書いてこいという課題が出されたことがある。当時からすでに本に耽溺するタイプだった俺としちゃ、もうほとんどこれは俺のために出された課題だとおもって張り切ったもんだ。しかし俺は、いろいろ難しいことを考えすぎて小説と呼べるようなものはひとつもかけなかった。そして当時、おなじく本の虫であった親友のコケちゃんは、ちゃんと何か書いて先生に提出したという。どうせたいしたことないんだろうという侮りと願望が複雑に入り混じった気持ちを隠して、コケちゃんの書いたものを読ませてもらったが、これが短いながらも見事にちゃんとしたショートショートになっていたのに俺はひそかに衝撃を覚えた。今でもそのあらすじを覚えている。
ああ、コケちゃん。やつにも何年も会ってないが、まだ生きているのかね。
このおはなしは、大人にならないとと書けないけど、大人になりきちゃうと逆に書けないよね。
川端裕人っていう人は、世界の成り立ちや広がりを感じさせるお話を書かせるとばつぐんにうまい。自分の手で空の向こうにたどり着くことをあきらめなかった「夏のロケット」。相場を物理現象の一種と捉え最新理論を駆使した株価予測ソフトを武器に世界へ殴り込みをかける「リスク・テイカー」。ハッカー文化のもつ反骨とナイーブだけど攻撃的な未来への願望を描いた「S.O.U.P」。星の声に耳を傾ける人々の切ない片思いが悲しい「せちやん」。恐竜の化石を中心に化学と哲学の来し方行く末を見据えた「竜と我らの時代」。どれもこれも、心のうちに隠し持った憧れと、眼前に広がる世界の広さを表現した物語ばかりだ。
主人公の年齢は各作品で違うけれども、すべてに共通するのは、なにかしらの形で世界にかかわってやろうという気概を彼らが持っていることである。そう、川端裕人の作品はすべて、「青春小説」なんだよ。
今いるこの場所の物語はたくさんある。ここではないどこかに行ったりあこがれたりする物語はもっとたくさんある。だけどこの「川の名前」は、この場所とここではないどこかがつながっているということを発見する物語なのだ。
そうか。川というのは、ここではないどこかとつながっているんだな。