GWの連休中に「イノセンス」をみてきた。
恐ろしく緻密で解像度の高い「絵」が印象に残る。アニメーションを劇場のスクリーンでみても、たいていノッペリとした絵が大写しになるだけなので興ざめするが、この作品では逆にCGIにより実写では不可能な細かさで択捉経済特区の光景を作り出した。こりゃ確かに劇場でみないとつまんないな。
しかし、後半の舞台は択捉なのに中国系や韓国系の企業ばっかりっていうのは、どういう社会背景を想定しているんだろうか。もっとロシア語の看板とかあってもいいと思うけど。
んで、ここからはネタバレあり。
ちょっと原作と映画の比較をしてみちゃったりなんかして、あははは。
Webで感想を探していると、どうもこの映画も賛否両論あるようだ。批判としては、わかりにくい映画だとか、押井守の独り善がりじゃないかとか、そんなことが言われているようだ。
原作を読んだ人は分かると思うけど、お話は原作で言う「阪華精機事件」をベースに「佐川電子事件」風味に味付けしたものだ。ただし、話の組み上げ方は違う。何が違うかというと一番違うのは、原作にはあった殿田大佐に当たるキャラクタが映画にはいない。
原作ではまず、殿田大佐が彼の所有する特別(な、人に言えない趣味の)アンドロイドに襲われるところから始まる。殿田大佐は荒巻の昔の恩人であり、引退したとは言え軍の実力者だったので、テロの可能性もありということで公安9課の出番となる。対して映画「イノセンス」では、すでに持ち主は殺害され、暴走したガイノイドをバトーが捕らえるところから話が始まる。ガイノイド暴走事件に公安9課が駆り出される理由は、新巻と9課メンバーの間で交わされた、被害者の中に政府要人が含まれていたというせりふでのみ説明される。
原作では人間そっくりだった暴走メイドアンドロイドが、映画では球体関節の少女人形になっている。この違いが、原作と映画のテーマの違いをあらわしている。テーマの違いというか、テーマへのアプローチの違いだな。
そもそも人形は、動いちゃいけないと思う。動かない人形に対して人の持つあれやこれやの感情を投影する、そのスクリーンがわりが人形の持つ機能だと思う。人形がスクリーン、というより人を写す鏡であるというテーマは劇中でも意識されていた。
原作版で殿田大差は新巻に対して、自分の所有するアンドロイドがいかに人間らしい動作をするか自慢するシーンがある(それにたいして新巻は「あまり人に自慢できる趣味ではありませんな」と返す)。つまり原作では、ユーザがアンドロイドのどのあたりに執着するか、多少なりとも物語上で説明があったわけ。
ところが「イノセンス」では、そのあたりの説明は検死官めいた鑑識のおばちゃんに人がなぜ人形に執着するのかを哲学的に語らせることでその説明に代えている。それとあとはハダリのデザインで説得力をもたせているのかな。それ以外には、ユーザが個別の製品としてのガイノイド「ハダリ」をなぜ所有したがるのか、なぜハダリが特別なのかを説明していない。そのおかげで、最後に出てきたゴースト・ダビング装置がちょっと浮いてしまったような印象を持ったのは俺だけだろうか。
ゴーストというのは攻殻機動隊世界の独特のジャーゴンである。これは新しい概念ではないが、かといって既存の語彙に対応する単語が見つかるわけでもない。もちろん幽霊という意味でもない。むしろ士郎正宗は、「ゴースト」という新しいシニフィエを創設することによって、逆にシニフィアンをあいまいにするという理屈のアクロバットを実演している。そうやって、人の「魂」という、本質的につかみ所のないものに、ハックやクラックの対象にできるだけの(物語上での)工学的実体を与えた。かの世界の技術史(そう、哲学史ではない、技術史だ)において、この単語の使用がどのように定着して行ったか。興味深いことである。
原作ではもちろん、映画版前作の「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」でも、この仕組みはうまく動作していたと思う。情報の海で発生した生命体であるところの人形遣いは、持つはずのないゴーストラインを持っていた。単なる個性以上の、生命なり魂なりを持つ者はすべてゴーストを持つ。
原作「阪華精機事件」の殿田大佐は、まるでゴーストを持つかのような精巧なアンドロイドを所有していることに倒錯した満足と執着をもっていた。だから、バトーとトグサが阪華精機に乗り込んだときに発見したゴースト・タビング装置が利いてくる。阪華精機は自社の製品に特徴を与えるためだけに人身売買で手に入れた子供たちのゴーストをゴースト・タビング装置で使いつぶしていた。そして、買われた子供や製品検査主任の行動にも説得力が出てくる。原作も映画版も、親切な説明を放棄しているのが共通した特徴なんだけど、一応は伏線の筋はとおっていたように思う。
「イノセンス」では人形というテーマに少しこだわりすぎじゃないかしらと思う。ノーマルな人⇒電脳化した人⇒一部義体⇒完全義体⇒精巧なアンドロイドと、すこしずつ変化していくグラデーションでつながっているのが攻殻機動隊の世界なんだけど、そこへハダリのデザインを持ってきたところで、明確な境界線ができてしまった。その距離感はどこにあるのだろうか。多分、ハダリが人形だからだろう。さっきのグラデーションで言えば、人形はアンドロイドのさらに先にある。人形までたどり着くと、すでに能動的には動かない。人形は、抱き上げる人がいなければそこに横たわったままでいるしかない。人形に魂が宿るとしたら、それは抱き上げる人の魂が反映しているのだ。人形が動くホラーや人形に魂がこもっているとか言う怪談を怖がるには、本来は自分の魂が反映されているはずのその人形に誰のものとも知れない誰か他人の魂が宿っているという認識が必要なのだ。
どうも俺には、その人形であるハダリに、ゴースト・タビング装置でゴースト移植するというのが、ちょっと距離感を感じさせるのだな。
いや、でも、う〜ん・・・。「イノセンス」はあのガイノイド「ハダリ」のデザインあっての映画だからなぁ・・・。この明確な境界線が、人を写す鏡になるってことなのかな。
発売日 2003/07/23
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後、直接は関係ないけど、俺としては「イノセンス」のクオリティで「仙術超攻殻 オリオン」をやってみてもらいたい。セラエノの図書館も多根虫も糞喰らいも全部そのまんまで。尺は4時間か5時間くらいでもいいから韻度も念度も下げずに。セスカの唱える例の呪文も一字一句変えずに。金はかかるだろうけし、一般の映画ファンをさらに置いてけぼりにする内容になるかもしれないけど、絶対いける。
ドミニオンもいいけどきっとパトレイバーと区別がつかなくなるな。
どうでもいいけどそろそろ士郎正宗も挿絵描きやエロ絵描きから漫画家に戻ってくんないかなぁ。